中央公論(2021・8) 教養とは?

実は私は、理性と教養が邪魔しない限り、人間はサルにも劣ると本気で信じていますが。(中略)そして「教養」という概念の少なくとも一部は、ここで言う「理性の戒め」を実行する根源として働くと私は考えています。 

p31~p33 村上 陽一郎「知識の豊かさが本質ではない」 積めば積むほど、自らに厳しくなる

 

 

  村上氏は「教養がある」ということは「慎み」があるということではないか、と言っている。

 人間は理性の戒めがなければ、なんでもできてしまう存在である、と言っている。

 そんな人間は自らに様々な"枷"をかして、生きている。

 その枷を自分にかすこと、自身の規範を定め生きること、自身の規範にいないものの行動を理解すること、それも「教養」というものの一つの局面とかいている。

 

 

 昔、知り合いと「今まで出会った嫌いな人」「いやな人」の話をしたことがある。その中で、一番はっとした話は「恥を恥と感じない人」の話だった。

 なんとも言えない不快感と、恐怖があって、近づきたくないのだ、と言っていた。中央公論のこの項を読んでいて、なんとなくその話を思い出していた。

 

 理性とか、まあなんでもいいが、枷がない人というのがいる。ネットスラングでいう「無敵の人」だが、この言葉の意味は「失うものがなにもない」ということらしい。

 

 失うものが何もない人間は何でもできてしまう。それは社会的な意味でも、精神世界的な意味でも、そうなのかもしれない。

 

 でも、もし社会的な意味で何の価値もない存在でも、道徳と倫理の枷があれば、「無敵」の存在にはならない。

 

 日常生活で最も接することがある人は、こういう理性の枷がやんわりと欠如した人達だ。

 昔いた会社の指導係がパワハラで有名だった。(なぜか指導係をしていた)

 なんの枷もないから、怒鳴ったり怒ったり、責任転嫁も当たり前だった。この人達は自分にかす枷やルールがやや人よりも緩いのだろう。

 こういう人は「無敵」ではないが「強い」ので、普通では太刀打ちできないな、と当時思っていた。(指導係は権威にとても弱かった。ただ権威以外にはかなり強かった)

 こういう人達には自分に枷をかしている状況では勝てないし、向こうは無法地帯のルールで戦ってくるので、ルールをもっている人ほど苦痛を感じるのだろう。

 

 同期の子で、穏やかな人で礼儀正しい人ほど、どんどんときつく感じているようだった。中途採用で、こういう人を相手に仕事をしていたような人は飄々としていた。彼らは彼らで、うまく指導係を煽てたりして、仕事していた。たぶん同じ人間と思って接するのでは駄目だと分かっていたのかもしれない。

 

 中央公論を読みながら、倫理観とかあらゆるものが緩い人間と接するのに、「教養がある」というのが弱みになる場合もあるかもな、と思った。