アガサ・クリスティー「娘は娘」 英雄的自己犠牲は一瞬では終わらない

 

 昔に見たアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」で一番印象に残っているのが、自己犠牲というテーマだ。

 

 まどか☆マギカ魔法少女たちの話なのだが、その中で魔法少女になることは犠牲を伴う。魔法少女になることを了承し、契約すれば願いが一つかなうという設定になっている。

 

 主人公まどかの友人のさやかという少女は、プロのバイオリン奏者を目指す男の子に片思いしている。その少年は治療困難な難病により夢を絶たれた状態であり、少年の病気を治すことを代償に、魔法少女になる。

 

 しかし魔法少女になった代償は重く、その中で片思いの少年も別の少女と付き合うことになり、さやかの精神は疲弊し、最後は魔女化(簡単に言うと闇落ち)し死ぬ。

 

 私はこれを見た当初、さやかに対してとても苛立った。というのも、口では彼のためにといいながら明らかにさやかはその少年と結ばれることを希求していた。

 その思慮の浅さがとても腹が立ったのだ。彼女は自分が何のために犠牲を払ったかすら考えなかったし、それについて自覚することもなかった(ように見えた)

 

 アガサクリスティーの「娘は娘」は母と娘の関係の機微を描きながら、”他者のための”犠牲について深い回答が示されている。

 

「自己犠牲! 生贄! まあ、考えてもごらんなさい、犠牲の意味することを。温かい、おおらかな気持ちで、すすんで自己をなげうつ―――そんな英雄的な瞬間だけが犠牲ではないのよ。(中略)多くの場合、あなたはその意味を身をもって明らかにしながら生きていかねばならないのよ―――一日じゅう、いえ、くる日もくる日も。それはなま易しいことではないわ」

アガサ・クリスティー 中村妙子訳「娘は娘」

 

 「娘は娘」以下あらすじ

 

 ある母親が早くに夫を亡くし、一人の娘とともにお互い深く愛し信頼しながら生きていた。母親は愛する男ができ結婚しようとするが、娘は男への子供じみた嫉妬心で、その結婚を妨害し、四六時中いさかいを起こす。それに疲れた母親は男と別れる。母親は結婚を妨害されたことをどうしても許せず、そして許せないこともうまく認められず性格が変わっていく。そして心のどこかで、娘の不幸を望むようになり、娘も不幸な結婚をし、堕落した生活に陥っていく。

 

 

 母親は心の中でずっと"娘のために”犠牲を払ったことを絶えず絶えず意識していたのだろう。そして娘が不幸な結婚をするように誘導する。

 

 そんな母親に対し、母親の友人は「わたしがあなただったら、結婚をあきらめたのは娘かそれとも自分自身のためか、つきとめるわ」というようなことを言う。

 

  犠牲という言葉を使うとき、必要不可欠な枕詞はこの言葉ではないかと思う。

 

 何のために犠牲を払うのか、それを自身で名前を付け納得しない限り、延々としコリとなって残り続ける。

 

 それを怠ること、愛情深い母親から恨みに支配された娘の不幸を願う母親になる。

 

「人生の悩みごとの半分は、自分を本当の自分よりも善良な、立派な人間だと思いこもうとすることからくるのよ」

 母親に、友達が助言するセリフが至言だ。

 

 人のためになにかしようとしたとき、それが自身にとってあまりに大きい犠牲を伴うものであったら、それが自分に身に余るものではないか考える必要がある。他者のために犠牲を払うことは美しいことだが、それが自己を過大に評価した故のものであればいつかその重さに人は押しつぶされる。