「蝶の毒 華の鎖」出会う瞬間を間違えた名作

 

私が中学生か高校生のころ、部活にもいかず、夕方に自室で「後味の悪い話」という2chのまとめを見ていた時期があった。

狂ったように読んでおり、なぜあれほどまでに…と今更ながら首をかしげるくらいの集中力だった。

そのまとめで、あるゲームのバッドエンドが挙げられたいた。

それが「蝶の毒 華の鎖」という女性成人向けのPCゲームとの出会いだった。

そのゲームを調べたところ、18禁ということでその当時18歳以下である私は購入などできるはずもなかった。また親もそういうものを買ってくれるタイプでもなく、私は強い好奇心を持ちながらそのゲームをいつかしたいと思うようになっていた。

 

で、私はその後も親と同居しており、自室もないため、そのゲームをできるまでにその後10年くらいの歳月がかかる。

 

働き始め、クレジットカードをつくり、やっと親にばれずに物が買えるようになり、去年やっとパソコンを購入して、一人暮らしをはじめることができた。

 

そして、休みの日は電子書籍で様々な本を買う日々を過ごしていた時に丸木文華という小説家にはまり、全作読んだ後、その作者がいつぞやの「蝶の毒 華の鎖」のシナリオを担当していることを知った。

 

でやっと1週間前に購入し、プレイをした。

 

本当にいろいろ感想としてはあるが、正直出会う時期が間違っていたな…というのが正直な感想で。

 

悔しすぎて、ほとんど丸二日くらい眠れなかった。

 

このゲームを、例えば18歳、19歳、20歳のときにできていたら、と思った。

考えてみると小学校から今まで、私はずっと本を読み続けた人生だった。

でも、中学校の時のように、前日読んだ本の内容を授業中ずっと反芻して、辛くなったりうれしくなったり、小説のセリフが頭をぐるぐる回ったり、なんてことは今はもうほとんどない。

 

私は27歳で、正直昔のように小説を人生に落とし込んだり、読後感でぼんやりすることなんていう余裕はない。

 

前後不覚でその物語に没入すると、翌日の仕事がしんどすぎるし。

 

でもこのゲームは、そういうゲームだった。

没入し、世界に浸るためのゲームだった。だからこそ、辛かった。没入しようとする私にブレーキをかける自分がいることがつらかった。

 

いろいろ感じる瞬間はあるが、出会うのが遅すぎて、ほんと口惜しく、そしてこれからの人生でこういうことが増えていくのだなと思うと少し憂鬱になる。

 

こういう作品に出会えたことは幸せで、すこし悲しいなあと思って最近は過ごしている。

 

 

 

 

アガサ・クリスティー「娘は娘」 英雄的自己犠牲は一瞬では終わらない

 

 昔に見たアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」で一番印象に残っているのが、自己犠牲というテーマだ。

 

 まどか☆マギカ魔法少女たちの話なのだが、その中で魔法少女になることは犠牲を伴う。魔法少女になることを了承し、契約すれば願いが一つかなうという設定になっている。

 

 主人公まどかの友人のさやかという少女は、プロのバイオリン奏者を目指す男の子に片思いしている。その少年は治療困難な難病により夢を絶たれた状態であり、少年の病気を治すことを代償に、魔法少女になる。

 

 しかし魔法少女になった代償は重く、その中で片思いの少年も別の少女と付き合うことになり、さやかの精神は疲弊し、最後は魔女化(簡単に言うと闇落ち)し死ぬ。

 

 私はこれを見た当初、さやかに対してとても苛立った。というのも、口では彼のためにといいながら明らかにさやかはその少年と結ばれることを希求していた。

 その思慮の浅さがとても腹が立ったのだ。彼女は自分が何のために犠牲を払ったかすら考えなかったし、それについて自覚することもなかった(ように見えた)

 

 アガサクリスティーの「娘は娘」は母と娘の関係の機微を描きながら、”他者のための”犠牲について深い回答が示されている。

 

「自己犠牲! 生贄! まあ、考えてもごらんなさい、犠牲の意味することを。温かい、おおらかな気持ちで、すすんで自己をなげうつ―――そんな英雄的な瞬間だけが犠牲ではないのよ。(中略)多くの場合、あなたはその意味を身をもって明らかにしながら生きていかねばならないのよ―――一日じゅう、いえ、くる日もくる日も。それはなま易しいことではないわ」

アガサ・クリスティー 中村妙子訳「娘は娘」

 

 「娘は娘」以下あらすじ

 

 ある母親が早くに夫を亡くし、一人の娘とともにお互い深く愛し信頼しながら生きていた。母親は愛する男ができ結婚しようとするが、娘は男への子供じみた嫉妬心で、その結婚を妨害し、四六時中いさかいを起こす。それに疲れた母親は男と別れる。母親は結婚を妨害されたことをどうしても許せず、そして許せないこともうまく認められず性格が変わっていく。そして心のどこかで、娘の不幸を望むようになり、娘も不幸な結婚をし、堕落した生活に陥っていく。

 

 

 母親は心の中でずっと"娘のために”犠牲を払ったことを絶えず絶えず意識していたのだろう。そして娘が不幸な結婚をするように誘導する。

 

 そんな母親に対し、母親の友人は「わたしがあなただったら、結婚をあきらめたのは娘かそれとも自分自身のためか、つきとめるわ」というようなことを言う。

 

  犠牲という言葉を使うとき、必要不可欠な枕詞はこの言葉ではないかと思う。

 

 何のために犠牲を払うのか、それを自身で名前を付け納得しない限り、延々としコリとなって残り続ける。

 

 それを怠ること、愛情深い母親から恨みに支配された娘の不幸を願う母親になる。

 

「人生の悩みごとの半分は、自分を本当の自分よりも善良な、立派な人間だと思いこもうとすることからくるのよ」

 母親に、友達が助言するセリフが至言だ。

 

 人のためになにかしようとしたとき、それが自身にとってあまりに大きい犠牲を伴うものであったら、それが自分に身に余るものではないか考える必要がある。他者のために犠牲を払うことは美しいことだが、それが自己を過大に評価した故のものであればいつかその重さに人は押しつぶされる。

 

 

 

 

 

 

中央公論(2021・8) 教養とは?

実は私は、理性と教養が邪魔しない限り、人間はサルにも劣ると本気で信じていますが。(中略)そして「教養」という概念の少なくとも一部は、ここで言う「理性の戒め」を実行する根源として働くと私は考えています。 

p31~p33 村上 陽一郎「知識の豊かさが本質ではない」 積めば積むほど、自らに厳しくなる

 

 

  村上氏は「教養がある」ということは「慎み」があるということではないか、と言っている。

 人間は理性の戒めがなければ、なんでもできてしまう存在である、と言っている。

 そんな人間は自らに様々な"枷"をかして、生きている。

 その枷を自分にかすこと、自身の規範を定め生きること、自身の規範にいないものの行動を理解すること、それも「教養」というものの一つの局面とかいている。

 

 

 昔、知り合いと「今まで出会った嫌いな人」「いやな人」の話をしたことがある。その中で、一番はっとした話は「恥を恥と感じない人」の話だった。

 なんとも言えない不快感と、恐怖があって、近づきたくないのだ、と言っていた。中央公論のこの項を読んでいて、なんとなくその話を思い出していた。

 

 理性とか、まあなんでもいいが、枷がない人というのがいる。ネットスラングでいう「無敵の人」だが、この言葉の意味は「失うものがなにもない」ということらしい。

 

 失うものが何もない人間は何でもできてしまう。それは社会的な意味でも、精神世界的な意味でも、そうなのかもしれない。

 

 でも、もし社会的な意味で何の価値もない存在でも、道徳と倫理の枷があれば、「無敵」の存在にはならない。

 

 日常生活で最も接することがある人は、こういう理性の枷がやんわりと欠如した人達だ。

 昔いた会社の指導係がパワハラで有名だった。(なぜか指導係をしていた)

 なんの枷もないから、怒鳴ったり怒ったり、責任転嫁も当たり前だった。この人達は自分にかす枷やルールがやや人よりも緩いのだろう。

 こういう人は「無敵」ではないが「強い」ので、普通では太刀打ちできないな、と当時思っていた。(指導係は権威にとても弱かった。ただ権威以外にはかなり強かった)

 こういう人達には自分に枷をかしている状況では勝てないし、向こうは無法地帯のルールで戦ってくるので、ルールをもっている人ほど苦痛を感じるのだろう。

 

 同期の子で、穏やかな人で礼儀正しい人ほど、どんどんときつく感じているようだった。中途採用で、こういう人を相手に仕事をしていたような人は飄々としていた。彼らは彼らで、うまく指導係を煽てたりして、仕事していた。たぶん同じ人間と思って接するのでは駄目だと分かっていたのかもしれない。

 

 中央公論を読みながら、倫理観とかあらゆるものが緩い人間と接するのに、「教養がある」というのが弱みになる場合もあるかもな、と思った。

 

 

 

 

個人の契約と代償  メンタリストDaiGo氏(漫画孤高の人)

  メンタリストDaiGo氏の動画を2,3度見たことがある。動画の主題はまったく何か覚えていないが、彼が自嘲的に最初に自分がテレビに出たときにスプーン曲げをして出た、という話をされていたことが印象に残っている。

 今の彼はYouTubeで知識人として認められており、そんな怪しげなエスパー染みたことをして世に出たことが苦痛であったというような口調だった。

 

 彼は世に認められるために代償をはらった、ということを話していた。よく覚えていないが、売り払ったプライドを買い戻した、というようなことも言われていた。(その動画を再度見ようとしたが、動画が多すぎて分からなかった)

 

 私はまったくもって彼の経歴を知らないが、(Wikipediaは見た)これから彼の代償が報われればいいと、そのとき他人事ながら思った。

 

 

 昔読んだ漫画で「孤高の人」(作者名 :坂本眞一 / 鍋田吉郎 / 新田次郎)というのがあった。

 「孤高の人」という小説をほぼすべて改変した内容になっている。

 どちらの作品も主人公は加藤文太郎という登山家がモデルになっている。

ja.wikipedia.org

 単独行で山に登り、数々の登攀記録を残した人らしい。最後は数年来のパートナーであった吉田富久という方と山に登った際、遭難されなくなられたようだ。

 

 漫画の内容はかなり忘れているのだが、唯一よく覚えている場面が、主人公が生死ギリギリの山に登っているとき、幻聴なのか、「お前は生涯の単独行を誓うことができるか?」と"山”に問われる場面がある。もしそれを誓えるなら、生きて帰してやる、と。

 

 主人公の森は生きて帰ることができた。

 

 この漫画は"それ”か”それ以外全て”という問いに”それ”と答える人を描いた漫画なのだ、と当時感じた。

 山がした問いは、生(単独行)対死ではなく、孤独であるが森にとって唯一の救いである登山対それ以外全てという問いだ。

 

 森はその契約に合意するが、最後に契約不履行に対して代償があたえられる。

 

 DaiGoという人は、とてもプライドが高いのだと思う。そしてそういう人だからこそ、志望校の不合格などの出来事が殊更傷つくことになったのかもしれない。多分成功というものを得るために、一番自分が大事なプライドを捧げて、そしてやっと今のような位置につけた人なのだと思う。

 

 彼を知ったきっかけは、家族が教育系YouTubeにハマっており、DaiGoだけは見てない、と言ったので、変わりにみてあげる、ということで見た。

 教育系YouTuberという先入観で入ったので、最初の印象はなんだか思ったより子供っぽいな、というものだったが、逆にそのあたりに好感をもった。

 

 彼の言動の節々に、過去どれだけ自分のプライドを切り売りしたのか、そして今徐々に自分が認められてきて、"理想”に近づいている、というのが見て取れた。

 彼は理想高い少年だったのだろう、たぶん自分がこうなりたいという像も深く思考していたのだと思う。そして数々の失望もあって、ここまで来られたのだろう、と当時勝手に妄想して、勝手に心の中で応援していた。(ただ彼の言動は何かおかしかったので家族には中田敦彦を見とけば十分と言っておいた)

 

 彼は最近、ホームレスや生活保護を受給している人に対して、強い差別発言をしたことで、話題になっている。

 

 私は中学、高校と生活保護を受けており、市営住宅に住んでいた。同じ棟の住人は裸で体操したりするような人間で、出歩くのが怖かった。

 

 病院で生活保護を示す札を出すことが恥ずかしかった。それに、学校で在学証明書を発行してもらう際に、何故発行の必要があるかという欄があった。

 親に聞くと「生活保護受給のため」と書きなさい、と言われたので黙って書いたが、出すときの担任の顔が見れなかった。

 

 友達にも誰にも、自分の家庭が生活保護を受給していることを言えなかった。学校のディベートで「生活保護に対してどう思いますか」という問いが出てきたときは、皆がまったく別の世界のように語るので驚いたりした。なんというか、わたしの実生活がディベートになるのだという、驚きだった。

 

 親にも外では絶対に言わないように言われていた。その当時は恥ずかしいからだと思っていたが、世の中にはDaiGo氏のような方が居て、危険があるという意味でもあったのかもしれない。

 

 ただ唯一の救いは、わたしは自分の境遇に納得ができた。今世の中で成功している人達であれば、その境遇をバネにしたり、見返してやる立ち向かっていく立ち向かっていくのかもしれないが、殊更そんな気にはならなかった。

 

 でも失望は、本当に毎日積み重なった。何も期待しようともしていないし、プライドを上手く飼い慣らしているつもりでも、失望はどういう瞬間にも襲ってきた。

 

 わたしにとっては、学生時代は失望に慣れる戦いだった。それに慣れなければ、自分が化け物のような人間になってしまうかもしれない、と感じていた。

 

 わたしがもっと賢く、理想高く、将来に夢をもっていたら、と考えると、時折息が詰まるような気がする。

 

 だから、DaiGoという人を勝手に、理想高い少年が、息の詰まりそうな失望を味わって、結果成功したのだと感じていた。

 大多数ができないであろう成功と彼の最も大事なプライド(彼にとって全て)の選択を行ったのだと。

 

 だから、今回の発言を聞いて彼の狭窄した視野(理想)は、まだまさ彼の失望が積み重なっている結果に読み取れてしまった。

 

 

 

 

竜とそばかすの姫とダブルヒーロー

 

 映画館は割と好きだし、行った後はまた頻繁に行こう、と思うが、結局行かない。ので、映画館で映画を見るのは一年に一回くらいだ。しかもコロナもあり、あまりいけなかったので、前回見たのは「クワイエット・プレイス」だ。

 その当時、レイトショーに憧れていて、レイトショーならホラーだろうと見に行った。ただよく考えたらホラーが苦手だったし、びくびくと震えながら見た。

 しかもその映画はキャッチコピーが「音を立てたら、即死」というもので、わりと静かな映画だったのに、ポップコーンを食べていたせいで周囲の視線が気になった。

 

 それが最後だったが、常々映画を見に行きたいなあ、と思っていた。

 で、グーグルニュースで、竜とそばかすの姫の感想があって、感想は読んでいないがなんとなく面白そう、と思い見に行くことにした。

 

 わたしが知っている監督と言えばスピルバーグタランティーノ黒澤明、そして細田守くらいだ。

 

 後の名前は全然覚えられない。

 

 細田守監督を知っているのは「明日のナージャ」のお気に入りの回の演出を細田守が行っていたからだ。

 

明日のナージャ」あらすじ

 孤児院出身の主人公の母親探しを主軸にして、双子のフランシス(貴族の令息、優しい)、キース(家を出た。義賊黒バラとして活動)との恋愛を絡めた物語。孤児院から出て、サーカスの旅一座に踊り子として加わり、各国を旅しながら色々な人達と出会う。

 

 

 わたしは小さい頃、あまり流行っていなかった明日のナージャが大好きだった。その中でも、特に好きなのはスペイン編。

 

 始終明るいナージャの話(結構ナージャの出自は暗いのだが)の中で、ひときわ人生の陰の部分を感じさせた。

 

 以下、うろ覚え

 

 スペインでナージャが出会ったのはスペインの英雄、闘牛士ホセ。彼は若い頃に、フラメンコダンサーのカルメンとお互いに愛し合い、一流になろうと約束する。しかし、カルメンは大富豪の外国人に見初められ、ホセを裏切り結婚。

 その後、ホセは失恋で命を惜しまなくなり、闘牛士として一流になる。しばらくしてカルメンが夫と離婚し、帰郷。カルメンは一流になったホセを見て、今の彼は私にふさわしい、と復縁を迫る。

 最初ホセは拒絶するのだが、カルメンの涙に流され、復縁する。その後二人は幸せそうにナージャと会話するのだが、内心で「なにかが足りない」とむなしく思う。

 

 確か、この後何話かあいて、また二人に焦点があたる。

 

 二人はお互い手に入れたいと思っていたものを手に入れたのに、虚しい。二人にとって若くなにも持っていない頃の方が満たされている。

 

 わたしは二人を見ながら人生の影の部分を感じさせた。見ていたとき小学生で、まだまだ時間と未来があると信じていた。ナージャの登場人物は皆割と明るく未来に向かって生きていた。だから、こうまで"なにかを失った人”に焦点を当てているのが、心に残った。

 人生に希望があって、人に希望があって、自分の人生を信じていた若い二人が、それを折られ、そしてもはや何を望んでいたかも分からない中、若い頃の希望に縋ってそれを得たとしても、もう心は満たされない。それは希望が輝かしいほど、澱んでしまうのかもしれない。

 

 そして、肝心の細田守監督が演出した回がスペイン編に挟まれている回。蜃気楼のような不思議な回なのだ。

 

 その日、スペインは猛暑で旅一座は暑さのあまりナージャ以外はぐったりしている。ナージャは一人で、スペインの市街をあるくのだが、その”暑さ”が影と光という形で鮮烈に描かれている。

 そしてそこで、キースに出会う。それまでナージャは義賊黒バラとして仮面を被ったキースしか見たことがないため、キースをフランシスと勘違いする。フランシスとキースは双子で顔かたちはうり二つ。ナージャはフランシスに憧れているのだが、黒バラにも何度か危ないところを助けられている。(ここら辺は完全に少女漫画)

 

 ナージャは久しぶりに出会ったフランシス(キース)に夢中で話をするのだが(結構ナージャのはしゃぎ方はうざかった)、フランシスはいつもと違う様子。フランシスはいつも優しいのに、今日はなぜだがぶっきらぼうだ、とナージャは珍しく「(話しすぎて)うっとうしいですよね」みたいなことをいう。ナージャは無神経に見えるくらいに前向きで明るいのに珍しい。

 キースとの会話の中で、背景の絵が本当に影絵のようで見事なのだ。もうこの回だけ異様にクオリティーが高い。アルハンブラ宮殿の回廊の陰と光が交互交互に差している様子と、その中でこの二人が歩いている。そこには素顔のキースがいて、ナージャは初めてくらい人の影のようなものを見ている。

 

 アニメ的にはフランシスは光、キースは陰とかかれる。

 

 でも勿論人間は両面をもっている。でもナージャは明るすぎて、相対する登場人物は陰の面を見せなかったり、ナージャ自身が見えていなかったりする。

 

 だから、ナージャのふとした"わたしが会話しているこの人とは?”という表情が新鮮だった。ナージャが真剣にその人を見て、その人自身を知ろうとしていることが、好きだった。いうなればナージャは人の光の、要するに表層を見てきた(良い意味で)のに、その奥には自分が今まで見たことがないものがあるという気づきがあったのだと思う。

 

 ナージャは途中で「貴方の別の面をしれた。いつもの貴方とは違うけど、もっと好きになった」みたいに言う。

 ナージャにとって光だけじゃないパーソナルなんて違和感だろうに、それを受け入れている。

 

 この回は人間の光と影、表面と裏側というテーマが、会話や背景が組み合わさって、よく伝わる良い回だ。

 

 

 ここ数年で細田守監督の作品がすごく有名になっているし、サマーウォーズは途中まで見たし(面白かった)、そんなときに何かのきっかけでこの回の演出を細田守監督がしていると知った。わたしの中ではサマーウォーズ明日のナージャなのだが、すごく才能のある監督なのだろう、きっと「竜とそばかすの姫」も面白いはずだとわくわくしながら映画館に行った。

 

 お金を奮発して、IMAXで見たし、ポップコーンも見た。久々に映画館で見るべき映画で、大満足だった。とてもわくわくしたし、映像に驚きや感動があった。

 

 そして、なんだか肩を落とすような不満とも幻滅ともいえない微妙な倦怠感が残った。

 

 この映画は、現実世界と"U”という仮想世界の二つの世界が描かれる。

 女子高生のすずは小さい頃に母を亡くしている。母は川で溺れかけている子供を助けようと川に入り、子供を助け、自身は助からなかった。そのとき、すずは母親がどうして私をおいてまで他の子供を助けたのか、と割り切れない思いを抱えている。それがトラウマで得意の歌が歌えない。

 そして"U”の世界で仮の姿を得たことで歌を歌えるようになり、全世界的に人気の歌手になる。ある日、"U"でコンサートをしていると竜と呼ばれるプレイヤーと正義の集団ジャスティスが乱入、コンサートがめちゃくちゃになる。竜(見た目は野獣)は"U"の世界でも嫌われる存在だった。(嫌われる理由が、バトル?のプレイスタイルが汚いとか)

 すずは竜の存在が気になり、関わりをもとうとする。しかし竜は他人を排除する態度ですずには心を開かない。また、他のプレイヤー達が竜の正体を暴こうとして、竜もどんどん追い詰められていく。

 

 

 この作品にはテーマが色々あるように見えるのだが、その中でも最も心を打ったのは、最初の"なぜ、母はわたしの手を振り払い、無関係の子を救おうとしたのか?"という問いを主人公が実感をもって理解した部分だ。

 

 すずは竜のために、身をなげうった(少なくとも映画ではそう描写されている)行動をする。そのときに、あのときの母親の気持ちを実感するという場面だ。

 

 もちろん、母の行動を頭ではいくらでも解釈できると思う。大人としての責務とか、動かずには居られなかった気持ちとか。でもそれを考えたところできっとすずは歌えなかったのだ。母に恨みは抱かずとも"どうして”と問うてしまうのは、母はわたしとの生涯より、あの場の子供をとったのだ、という気持ちを整理できないからだ。

 

 この"実感”というのが、とても印象に残った。

 ああ、母はこういう気持ちだったのだ、と納得・理解するのではなく、納得も理解もできないが、実感してしまうというのが、唐突だが何か人間の悲しさのようなそんな感情を持ってしまったのだ。

 

 私なら、分かってしまいたくない。

 母はあのとき、ああするしか無かった。そしてすずも、そうするしかなかった。

 そして何故、の疑問は二人の心情に吸収されていき、周囲に残るのは周りの実感を伴わない理解だけなのだ。

 

 

 そのテーマは好きだったが、そのほかに配置された数々のテーマは一作で扱うには多すぎたのか、少しまとまりがないように感じた。

 脚本も全て細田守監督が行っているらしいので、きっと作品との距離が近すぎて、粗が見えにくいのかなと思った。

 

 とのかく映像といい構図と良い素晴らしいので、もっと客観性がある映画だと素晴らしいのに、と残念だった。

 

 それに、私は結構恋愛能なので、忍君(幼なじみ)と竜(可哀想な子供)のどちらが本命なのだろうと、思っていたのだが、最後忍君とのやりとりが本命ぽくて悲しかった。(竜推しだった)

 もちろん竜は傷ついた子供だし、年下なので、すずからしたら恋愛対象にはなりにくいし、映画でも途中から竜へのロマンス色は消えた。

 

 ただそのあたりのちょっとした恋愛模様のようなものが、なんだか雑な印象で、ちょっとした気持ちの悪い感情が残った。

 

 ナージャでもそうだが、ダブルヒーローの場合、どうしても推してしまうのは、この人間にとって主人公は必要不可欠だ、というタイプだ。

 そういうタイプはやはり自立した人間に比べて、少し人間に欠落を抱えていることが多くややこしいタイプだ。賢明なヒロインなら、きっとややこしいタイプではない方を選ぶ。

 

 竜とそばかすの姫の主人公は、竜のために自己犠牲を払った瞬間、運命的(恋愛的な意味でなく)に賢明な道(忍)ではなく、賢明ではない道=竜を選んだのだと、勝手に解釈していた。

 

 だから最後の忍君の台詞も違和感があった。

 これから主人公は賢明ではない道を選んだ代償を払わされる筈だ。そこにかつてあった選択肢である忍君が現れるのは違和感があった。

 忍君は言ってみれば無責任な大衆なのだから、やはり代償は、すずの運命を傍観するしかないというところにある気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運命の自己責任論 朱雀門と天人唐草

 

 小さい頃、わたしは常々周りに「お金がなくて食べ物がなくなったら餓死するしかないの?」と周囲に聞いて回っていた。それに対する返答は「そんな風になるわけない」「心配症すぎる」とかそういう返答だった。

 

 当たり前だが、そんな返答に幼いわたしの不安は解消されるわけもなく、餓死しそうになったらどうするかばかり考えていた。

 

 中学生の頃図書館で「どんとこい、貧困!」という本の題名を見たとき、まさしくこれこそが求めていた本だと、飛びついた。どんとこい、貧困!は題名から見ても、正真正銘奇跡のような本だった。奇跡のようにわたしの求めていた本だった。まさしく不安を癒やし、救いをもたらしてくれたのだ。

 

 その本を頬ずりせんばかりに愛していたが、ある日親がその本をとりあげて、こんな風なものを読むな。そんな風になる。お前が貧乏になることなんかないし、そんなもの読んでるのも見たくない、というようなことを言った。そして「普通に生きてたら貧乏にもホームレスにもならない」と言われた。

 

 普通に生きる? そんな抽象的な言葉で人生の不安は解消されるわけがない、とわたしは反抗した。

 

 というよりこの本の内容は、そういう言論をある程度否定していた。

 確か椅子取りゲームに例えて(10年位前に読んだきりなのであまり覚えていない)、椅子取りゲームの敗者に対して「努力が足りなかった」「もっと頑張れば椅子に座れた」というのは間違いではないか? 本当は椅子が人数分あればいいのではないか、という風に書かれていた。(たぶん)

 

 わたしは中学生だったが、頑張ったり、一生懸命勉強しても、もしかして椅子に座れなかった人は多いのではないか、と感じていたので、その言論はすごく頷けた。

 

そして"溜め”という概念についても書かれていた。

 要するにお金持ちで、両親が賢明で優しく、元々の頭も悪くなく、容姿に優れていて、身体能力に優れており・・・・・・そうなると必然人格も良くなり、友達もたくさん。

 こういう人は溜めがたくさんある、という。

 

 逆に溜めがないというのは、両親が貧乏で、自分の頭も元々悪く、容姿も悪く・・・・・・。

 

 

 わたしが感心したのは目には見えない"溜め”についても書かれていたからだ。溜めがないーーー貧乏で頭も悪く、容姿も悪いーーー人間も、もし両親が教育に熱心だったら? 子供を愛していたら、それは"溜め”らしかった。

 

 わたしは当時家庭は貧乏であったが、幸いないことに両親は本好きで、社会常識もよく知っていた。だから小さい頃から本を読む習慣もあって、このどんとこい、貧困!にも出会えたわけだ。

 

 わたしはなるほどな、と思った。世の中で貧乏から這い上がった人達は、今現在貧乏な人達を見て「努力がたりない」という、そんな気持ちがちょっと分かったのだ。

 

 多分その人達は恵まれた人に比べて溜めは少なかったのだろうが、きっと目には見えない溜めがあったのだろう。しかしそれは認識しづらいもので、自分の条件と人の条件は比べられない。

 

 貧乏でもおんなじ条件ではないが、幼少期の不幸の裏に隠れた諸々の条件など分かるわけもない。

 

 そんなわけで、わたしは貧困は自己責任だ、という論には否定的になった。世の中には溜めが少ない状況で生まれ、そしてその結果貧困に陥ることがある。だれかが降りなければいけない椅子取りゲームで敗者になってしまうのは、「努力」ではない要因の方がきっと多いのだろう。

 とはいっても、そんな溜めとかそんな話より、貧困になったときにどうすればいいのか、ということの方が興味があったのでとくに深くは考えなかった。

 

 話は変わるが、山岸涼子という漫画家に出会ったのはそれより幾分か前、たぶん小学生の頃だ。わたしはその当時ファンタジー小説を愛好していた。小説を現実逃避の一環に利用していたので、ファンタジー+長編+少女が主人公という条件の小説を読み過ぎて食傷気味になっていた。

 で、ふらふらと図書館を歩いていると、赤木かんこ編、という文字が目に入った。名前が印象的だったので、わたしはしばらくそのアンソロジー集の背表紙を眺めた。パステルカラーの本が何冊か並んでいた。パラパラと捲ると、どうやらテーマごとに短編をより集めていることが判明した。

 

 その中で幾分目立っていたのが「六の宮の姫君」という表紙だった。そのほかの表紙は家族、とか死とか、テーマが明確だったので、好奇心がわいた。

 それにわたしは女主人公のものが好きだったので、姫君という言葉にも惹かれた。

 で、捲ると驚いたことに、漫画が収録されていたのだ。

 

 それが山岸凉子の「朱雀門」だった。その漫画は芥川龍之介の「六の宮の姫君」をテーマとする話だった。

 以下「六の宮の姫君」芥川龍之介著 あらすじ

①六の宮という土地に住む姫君の父は古い宮腹の生まれで、昔気質の人だった。幼少姫君は父母に寵愛され何不自由なく過ごした。しかし、父母が相次いで亡くなり、姫君には乳母の他に頼るものがなくなってしまう。

徐々に暮らしが悪くなり、他の召使いは一人、又一人と辞めていく。残ったのは乳母一人だった。

姫君も家の暮らしが悪くなるのがだんだんと分かったが、どうすることもできず、琴を弾いたり、歌を詠んだりと昔通りに暮らした。そんなある日、乳母は姫君の暮らしを憂えて、丹波の前司某の殿を夫に勧める。

 姫君は身売り同然のその提案に泣くのだった。

②姫君は丹波の前司某の殿に夜ごとに会うようになった。男は優しく、そのうち姫君の屋敷も華やぐようになった。姫君は夫を愛しはしなかったが、頼りに思い「なりゆきに任せるほかはない。」と生活に安らかな満足を覚えていた。

しかしある日夫は父が陸奥の守に任じられ、自分もついていく他なく、姫君の元には5年戻れないと告げられる。

③夫は六年たっても帰らなかった。その間に姫君の暮らしは悪くなったが、姫君は昔の通り琴など弾きながら、夫を待ち続けた。乳母は姫君に再婚を勧めるが、疲れ切った姫君は「ただ静かに老い朽ちたい。」というのだった。

④夫が京に戻ったのは、9年目だった。男は京に戻り姫君を探すが、元の屋敷はことごとくなくなっていた。歩いていると朱雀門の軒下で尼が一人、不気味なほどやせがれている病人を介抱している。

 病人は姫君で、尼は乳母だった。

 姫君は臨終間際だった。乳母は近くの乞食法師に姫君の為に経を読んでほしいと頼む。法師は「往生は人手にできるものではない」といい、姫君に阿弥陀仏の御名を唱えるように言う。

 姫君は細々と唱えだしたが、「火の車が・・・」「金色の蓮華が・・・」と気をそらし仏名を唱え続けられない。

そして「何も見えない。冷たい風ばかりが吹いて参ります」と言い亡くなる。

⑤それから何日か後、朱雀門のほとりに女の泣き声がすると噂が立っていた。確かめにきた侍に、そこにいた法師は「御仏を念じておやりなされ」「あれは極楽も地獄も知らぬ、不甲斐ない女の魂でござる。」という。

 

 山岸凉子朱雀門ではなぜ芥川龍之介は姫君を"不甲斐ない女の魂”と見下げているのか、という解釈がのっている。

  これがまたすごく、姫君はただ流されるままに生き、自分でなにもしなかった。夫をもっても愛することもせず、夫が陸奥にいっても待つだけだった。

  そんな姫君は生を行き切れず、生きている実感もなく、そして「死」を実感できない、と書かれている。

 

 

 読んだ当時一番疑問に思ったのは「どうして姫君は念仏を唱えないんだろ?」ということだった。唱えたなら、天国に行けるのに、と。

 姫君が念仏を唱えないのは、流されるままに生き自分の力ではなにもしなかったという暗喩なのだろうが、そこがわたしにとってはものすごく不満だった。他力でもなんでもいいし、最期ぐらい頑張って天国に行けば良いのにと。

  それに、この当時の姫君ならこんなものだろう、むしろよくやってるし、こういう姫君にふがいないと言うなんて、ちょっと厳しいと思っていた。

 

 ただ色々考えるうちに思ったのは、どういう運命でも自分の介入できる余地が全くない、ということはないのかなということだった。そりゃ、姫君は昔の人で、たぶん生活を自分がどうにかする発想はなかったが、地獄にも天国にもいけない、そんな最期を避ける方法は確実にあったのだ。それは何か行動を起こすことではなくても、例えば自分に尽くしてくれる乳母に対してもっと感謝したり、夫を頼みに思うだけじゃなく愛したりすることでもいい。もしそんな風だったら、姫君はきっと最期念仏を一生懸命唱えただろう。

 

 芥川の姫君への批判は生き方、というより生きる意思さえ抱かないそのあり方にあるのかもしれい。

 姫君は何もしなかった、そして何もしようとも思わなかった。何かすれば思うようにならないこともあるし、やってから、気弱になって結局途中でやめてしまったりする。でも姫君はそれ以前に、何かの意思すら抱かなかった。

 

 そう考えると確かに"ふがいない”と言われても仕方ない。

 

 

 で、その頃から山岸凉子という漫画家がすごいと思っていたが、それ以降とくに読む機会はなかった。一度ブックオフで立ち読みしたホラーは面白かったが、内容は忘れた。

 で、つい先日京都のマンガミュージアムに行ったときに、古い漫画がたくさんあったので、「朱雀門」を探そうとしていたら、(買っていないのでもっていない。最期に読んだのは高校生)「天人唐草」という漫画を見つけた。

 題名がかっこいいし、短そうだったのでそれを読んだ。

 

ja.wikipedia.org

 

  Wikipediaに詳しく書かれているし、結構有名な話らしい。

 

 その理由はよく分かる。

 その当時の少女漫画でよくやるな、という内容だし、主人公・響子が最後発狂するシーンは鳥肌が立つほど怖い。映像化されるなら、ジャンルはホラーだろう。

 この話で一番心に残った場面は同僚の男に、君がそんな風に過度に失敗を恐れるのは「見栄っ張り」だからだと指摘される場面だ。失敗を恐れるのは自分自身がなんでもよくできると思われたいからで、人の視線を気にしすぎるせいだ、と。(細かい言葉遣いは違うかもしれない)

 地の文では「彼女にとってこれは大事な一瞬だった」とはっきりとかかれる。

 わたしがたぶん印象に残ったのはこの男の指摘ではなく、地の文の言葉だろう。人が発狂する過程において、はっきりと運命の分岐点を明言していることがなぜかものすごく衝撃的だった。

 結局、男に送って貰った響子は父の「ああいう(軽薄な)男は好かん」という言葉で、その男の指摘を深く考えることはせず、運命を変えなかった。

 

 また他の場面で、これも地の文だが、「この先に何か大きな落とし穴があるきはしたが、彼女は目の前の小さなハードルを越えられないでいた」みたいな文があり、それも印象に残った。

 

 この漫画の厳しさはきちんとチャンスを用意することだろう。

 

 響子は生育家庭で抑圧されたために自主性・女性性が歪んでいた。それが大きな原因として発狂にいきつくのだが、きちんと考える機会をあたえていることがより一層の厳しさをもった話になっている。

 

 わたしの頭にちらつくのは響子が発狂したのは自分の責任だったのだろうか?ということだった。

 

 貧困では自己責任論否定派だが、人生・運命においては確かに少し違うのだろう。

 人生で自由裁量がまったく認められていないということはないし、自分の意思が介入する余地は多分にある。

 

 響子は教育によって自我に歪みがあったが、立て直す機会はあったし、実は本人は薄々気づいていたのだろう。けれど、響子は見たくないものを見ないために、臭いものに蓋をの要領で、自己を見つめるという苦しい作業を行わなかった。それを行うと不都合なことがあったからだ。自己の弱みの発見と、尊敬する父の欺瞞だ。

 

 響子の発狂するきっかけは、尊敬した父の愛人が色気はあるが、だらしない女そのものーーー父が響子にあんな風になるなといった女だったからだ。

 そこで、響子は今までの思考停止の代償を払わされ、そして行きずりの男にレイプされ、発狂する。

 

 自分に向き合わなかったことの代償は、自己を失う程の代償を必要とするのだろうか。

 

 自己を持たなかった姫君と、自己に向き合わなかった響子。

 

 わたしは責任とは自己の裁量があるところに生まれると思う。だからこそ世の中の運命の理不尽さに対して、本人にそれほど責を求められるのは可哀想だと素朴に感じる。

 しかし二人がそれぞれの結末に至った原因は運命の理不尽さではなく、自己を見つめることのない無責任さなのだと思う。

 

 思うようにならないものがとても多い中で、自分というものはどこでだって変えることはできる。

 

 「どんと来い、貧困!」で溜めとは自分を守るバリアーみたいなものだと書かれていた。自我と言われるものもそういう機能があるように思う。

 二人は自己を考え、自分に対して責任をもつことが、理不尽な運命に対する防衛機制として機能したのではないか・・・・・・と、なんとなく悲しく思った。