運命の自己責任論 朱雀門と天人唐草

 

 小さい頃、わたしは常々周りに「お金がなくて食べ物がなくなったら餓死するしかないの?」と周囲に聞いて回っていた。それに対する返答は「そんな風になるわけない」「心配症すぎる」とかそういう返答だった。

 

 当たり前だが、そんな返答に幼いわたしの不安は解消されるわけもなく、餓死しそうになったらどうするかばかり考えていた。

 

 中学生の頃図書館で「どんとこい、貧困!」という本の題名を見たとき、まさしくこれこそが求めていた本だと、飛びついた。どんとこい、貧困!は題名から見ても、正真正銘奇跡のような本だった。奇跡のようにわたしの求めていた本だった。まさしく不安を癒やし、救いをもたらしてくれたのだ。

 

 その本を頬ずりせんばかりに愛していたが、ある日親がその本をとりあげて、こんな風なものを読むな。そんな風になる。お前が貧乏になることなんかないし、そんなもの読んでるのも見たくない、というようなことを言った。そして「普通に生きてたら貧乏にもホームレスにもならない」と言われた。

 

 普通に生きる? そんな抽象的な言葉で人生の不安は解消されるわけがない、とわたしは反抗した。

 

 というよりこの本の内容は、そういう言論をある程度否定していた。

 確か椅子取りゲームに例えて(10年位前に読んだきりなのであまり覚えていない)、椅子取りゲームの敗者に対して「努力が足りなかった」「もっと頑張れば椅子に座れた」というのは間違いではないか? 本当は椅子が人数分あればいいのではないか、という風に書かれていた。(たぶん)

 

 わたしは中学生だったが、頑張ったり、一生懸命勉強しても、もしかして椅子に座れなかった人は多いのではないか、と感じていたので、その言論はすごく頷けた。

 

そして"溜め”という概念についても書かれていた。

 要するにお金持ちで、両親が賢明で優しく、元々の頭も悪くなく、容姿に優れていて、身体能力に優れており・・・・・・そうなると必然人格も良くなり、友達もたくさん。

 こういう人は溜めがたくさんある、という。

 

 逆に溜めがないというのは、両親が貧乏で、自分の頭も元々悪く、容姿も悪く・・・・・・。

 

 

 わたしが感心したのは目には見えない"溜め”についても書かれていたからだ。溜めがないーーー貧乏で頭も悪く、容姿も悪いーーー人間も、もし両親が教育に熱心だったら? 子供を愛していたら、それは"溜め”らしかった。

 

 わたしは当時家庭は貧乏であったが、幸いないことに両親は本好きで、社会常識もよく知っていた。だから小さい頃から本を読む習慣もあって、このどんとこい、貧困!にも出会えたわけだ。

 

 わたしはなるほどな、と思った。世の中で貧乏から這い上がった人達は、今現在貧乏な人達を見て「努力がたりない」という、そんな気持ちがちょっと分かったのだ。

 

 多分その人達は恵まれた人に比べて溜めは少なかったのだろうが、きっと目には見えない溜めがあったのだろう。しかしそれは認識しづらいもので、自分の条件と人の条件は比べられない。

 

 貧乏でもおんなじ条件ではないが、幼少期の不幸の裏に隠れた諸々の条件など分かるわけもない。

 

 そんなわけで、わたしは貧困は自己責任だ、という論には否定的になった。世の中には溜めが少ない状況で生まれ、そしてその結果貧困に陥ることがある。だれかが降りなければいけない椅子取りゲームで敗者になってしまうのは、「努力」ではない要因の方がきっと多いのだろう。

 とはいっても、そんな溜めとかそんな話より、貧困になったときにどうすればいいのか、ということの方が興味があったのでとくに深くは考えなかった。

 

 話は変わるが、山岸涼子という漫画家に出会ったのはそれより幾分か前、たぶん小学生の頃だ。わたしはその当時ファンタジー小説を愛好していた。小説を現実逃避の一環に利用していたので、ファンタジー+長編+少女が主人公という条件の小説を読み過ぎて食傷気味になっていた。

 で、ふらふらと図書館を歩いていると、赤木かんこ編、という文字が目に入った。名前が印象的だったので、わたしはしばらくそのアンソロジー集の背表紙を眺めた。パステルカラーの本が何冊か並んでいた。パラパラと捲ると、どうやらテーマごとに短編をより集めていることが判明した。

 

 その中で幾分目立っていたのが「六の宮の姫君」という表紙だった。そのほかの表紙は家族、とか死とか、テーマが明確だったので、好奇心がわいた。

 それにわたしは女主人公のものが好きだったので、姫君という言葉にも惹かれた。

 で、捲ると驚いたことに、漫画が収録されていたのだ。

 

 それが山岸凉子の「朱雀門」だった。その漫画は芥川龍之介の「六の宮の姫君」をテーマとする話だった。

 以下「六の宮の姫君」芥川龍之介著 あらすじ

①六の宮という土地に住む姫君の父は古い宮腹の生まれで、昔気質の人だった。幼少姫君は父母に寵愛され何不自由なく過ごした。しかし、父母が相次いで亡くなり、姫君には乳母の他に頼るものがなくなってしまう。

徐々に暮らしが悪くなり、他の召使いは一人、又一人と辞めていく。残ったのは乳母一人だった。

姫君も家の暮らしが悪くなるのがだんだんと分かったが、どうすることもできず、琴を弾いたり、歌を詠んだりと昔通りに暮らした。そんなある日、乳母は姫君の暮らしを憂えて、丹波の前司某の殿を夫に勧める。

 姫君は身売り同然のその提案に泣くのだった。

②姫君は丹波の前司某の殿に夜ごとに会うようになった。男は優しく、そのうち姫君の屋敷も華やぐようになった。姫君は夫を愛しはしなかったが、頼りに思い「なりゆきに任せるほかはない。」と生活に安らかな満足を覚えていた。

しかしある日夫は父が陸奥の守に任じられ、自分もついていく他なく、姫君の元には5年戻れないと告げられる。

③夫は六年たっても帰らなかった。その間に姫君の暮らしは悪くなったが、姫君は昔の通り琴など弾きながら、夫を待ち続けた。乳母は姫君に再婚を勧めるが、疲れ切った姫君は「ただ静かに老い朽ちたい。」というのだった。

④夫が京に戻ったのは、9年目だった。男は京に戻り姫君を探すが、元の屋敷はことごとくなくなっていた。歩いていると朱雀門の軒下で尼が一人、不気味なほどやせがれている病人を介抱している。

 病人は姫君で、尼は乳母だった。

 姫君は臨終間際だった。乳母は近くの乞食法師に姫君の為に経を読んでほしいと頼む。法師は「往生は人手にできるものではない」といい、姫君に阿弥陀仏の御名を唱えるように言う。

 姫君は細々と唱えだしたが、「火の車が・・・」「金色の蓮華が・・・」と気をそらし仏名を唱え続けられない。

そして「何も見えない。冷たい風ばかりが吹いて参ります」と言い亡くなる。

⑤それから何日か後、朱雀門のほとりに女の泣き声がすると噂が立っていた。確かめにきた侍に、そこにいた法師は「御仏を念じておやりなされ」「あれは極楽も地獄も知らぬ、不甲斐ない女の魂でござる。」という。

 

 山岸凉子朱雀門ではなぜ芥川龍之介は姫君を"不甲斐ない女の魂”と見下げているのか、という解釈がのっている。

  これがまたすごく、姫君はただ流されるままに生き、自分でなにもしなかった。夫をもっても愛することもせず、夫が陸奥にいっても待つだけだった。

  そんな姫君は生を行き切れず、生きている実感もなく、そして「死」を実感できない、と書かれている。

 

 

 読んだ当時一番疑問に思ったのは「どうして姫君は念仏を唱えないんだろ?」ということだった。唱えたなら、天国に行けるのに、と。

 姫君が念仏を唱えないのは、流されるままに生き自分の力ではなにもしなかったという暗喩なのだろうが、そこがわたしにとってはものすごく不満だった。他力でもなんでもいいし、最期ぐらい頑張って天国に行けば良いのにと。

  それに、この当時の姫君ならこんなものだろう、むしろよくやってるし、こういう姫君にふがいないと言うなんて、ちょっと厳しいと思っていた。

 

 ただ色々考えるうちに思ったのは、どういう運命でも自分の介入できる余地が全くない、ということはないのかなということだった。そりゃ、姫君は昔の人で、たぶん生活を自分がどうにかする発想はなかったが、地獄にも天国にもいけない、そんな最期を避ける方法は確実にあったのだ。それは何か行動を起こすことではなくても、例えば自分に尽くしてくれる乳母に対してもっと感謝したり、夫を頼みに思うだけじゃなく愛したりすることでもいい。もしそんな風だったら、姫君はきっと最期念仏を一生懸命唱えただろう。

 

 芥川の姫君への批判は生き方、というより生きる意思さえ抱かないそのあり方にあるのかもしれい。

 姫君は何もしなかった、そして何もしようとも思わなかった。何かすれば思うようにならないこともあるし、やってから、気弱になって結局途中でやめてしまったりする。でも姫君はそれ以前に、何かの意思すら抱かなかった。

 

 そう考えると確かに"ふがいない”と言われても仕方ない。

 

 

 で、その頃から山岸凉子という漫画家がすごいと思っていたが、それ以降とくに読む機会はなかった。一度ブックオフで立ち読みしたホラーは面白かったが、内容は忘れた。

 で、つい先日京都のマンガミュージアムに行ったときに、古い漫画がたくさんあったので、「朱雀門」を探そうとしていたら、(買っていないのでもっていない。最期に読んだのは高校生)「天人唐草」という漫画を見つけた。

 題名がかっこいいし、短そうだったのでそれを読んだ。

 

ja.wikipedia.org

 

  Wikipediaに詳しく書かれているし、結構有名な話らしい。

 

 その理由はよく分かる。

 その当時の少女漫画でよくやるな、という内容だし、主人公・響子が最後発狂するシーンは鳥肌が立つほど怖い。映像化されるなら、ジャンルはホラーだろう。

 この話で一番心に残った場面は同僚の男に、君がそんな風に過度に失敗を恐れるのは「見栄っ張り」だからだと指摘される場面だ。失敗を恐れるのは自分自身がなんでもよくできると思われたいからで、人の視線を気にしすぎるせいだ、と。(細かい言葉遣いは違うかもしれない)

 地の文では「彼女にとってこれは大事な一瞬だった」とはっきりとかかれる。

 わたしがたぶん印象に残ったのはこの男の指摘ではなく、地の文の言葉だろう。人が発狂する過程において、はっきりと運命の分岐点を明言していることがなぜかものすごく衝撃的だった。

 結局、男に送って貰った響子は父の「ああいう(軽薄な)男は好かん」という言葉で、その男の指摘を深く考えることはせず、運命を変えなかった。

 

 また他の場面で、これも地の文だが、「この先に何か大きな落とし穴があるきはしたが、彼女は目の前の小さなハードルを越えられないでいた」みたいな文があり、それも印象に残った。

 

 この漫画の厳しさはきちんとチャンスを用意することだろう。

 

 響子は生育家庭で抑圧されたために自主性・女性性が歪んでいた。それが大きな原因として発狂にいきつくのだが、きちんと考える機会をあたえていることがより一層の厳しさをもった話になっている。

 

 わたしの頭にちらつくのは響子が発狂したのは自分の責任だったのだろうか?ということだった。

 

 貧困では自己責任論否定派だが、人生・運命においては確かに少し違うのだろう。

 人生で自由裁量がまったく認められていないということはないし、自分の意思が介入する余地は多分にある。

 

 響子は教育によって自我に歪みがあったが、立て直す機会はあったし、実は本人は薄々気づいていたのだろう。けれど、響子は見たくないものを見ないために、臭いものに蓋をの要領で、自己を見つめるという苦しい作業を行わなかった。それを行うと不都合なことがあったからだ。自己の弱みの発見と、尊敬する父の欺瞞だ。

 

 響子の発狂するきっかけは、尊敬した父の愛人が色気はあるが、だらしない女そのものーーー父が響子にあんな風になるなといった女だったからだ。

 そこで、響子は今までの思考停止の代償を払わされ、そして行きずりの男にレイプされ、発狂する。

 

 自分に向き合わなかったことの代償は、自己を失う程の代償を必要とするのだろうか。

 

 自己を持たなかった姫君と、自己に向き合わなかった響子。

 

 わたしは責任とは自己の裁量があるところに生まれると思う。だからこそ世の中の運命の理不尽さに対して、本人にそれほど責を求められるのは可哀想だと素朴に感じる。

 しかし二人がそれぞれの結末に至った原因は運命の理不尽さではなく、自己を見つめることのない無責任さなのだと思う。

 

 思うようにならないものがとても多い中で、自分というものはどこでだって変えることはできる。

 

 「どんと来い、貧困!」で溜めとは自分を守るバリアーみたいなものだと書かれていた。自我と言われるものもそういう機能があるように思う。

 二人は自己を考え、自分に対して責任をもつことが、理不尽な運命に対する防衛機制として機能したのではないか・・・・・・と、なんとなく悲しく思った。